vol.17 畠中 亜弥子(おすしと和食 はた中)

畠中 亜弥子/1991年生まれ 奈良県出身/おすしと和食 はた中 料理長

男性の職業というイメージが強い板前。寿司屋の店舗数が全国2位の石川県においても、女性の和食料理人を見かけることはほぼありません。修行も厳しく保守的な業界の中で、どのようにして自分らしい生き方や働き方を見出してきたのか、金沢で板前として活躍されている畠中亜弥子さんにお話を伺いました。

世界文化遺産の村で生まれ育つ

女性で板前の方にお会いするのは初めてです。どういう経緯で今のお仕事に至ったのかぜひ聞かせてください。

私が生まれ育ったのは、奈良県の天川(てんかわ)村という田舎です。ものすごい田舎で、小学校時代の同級生は9人、中学は17人。もちろんショッピングセンターやゲームセンターなどありません。友達との遊びにネタが尽きると、虫や鳥、樹木など自然の中の動植物たちを相手に遊んでいました。実は、バードウォッチング検定2級の資格も持ってます(笑)。生き物や植物に興味を持ったおかげで、図鑑が好きになりました。ファーブル昆虫記などを読むにつれて読書が好きになり、中学時代は年に400冊の本を読破。特に気に入っていたのが宮沢賢治です。宇宙や星など賢治の持つ自然観から、共感できる部分がたくさんありました。

自然に囲まれた本物の田舎なんですね。

ふるさとの天川村はユネスコの世界文化遺産の一部に指定されているんです。山岳宗教の村で、修験道の聖地としても知られています。田舎だけれど国からの保護を受けていて、神道色がとても濃いのが特徴です。近畿で一番高い山があるので登山客も来る。標高が高いので避暑地にもなる。観光業で成り立っている村ですね。村の人たちはみんな商売をして生計を立てている自営業者ばかり。サラリーマンはほとんどいません。私の実家は旅館です。家族みんなで働きながら暮らしていました。料理もみんなでしたり、家事や仕事が生活の一部でした。近所づきあいも密で、畑をしている人から野菜をもらったり、こちらからは山菜をあげたり。そんな生活を中学まで送っていました。

大切なふるさと、天川村にて

天川村は市街地から離れた場所にあるので、高校進学時にはみんな村から出て、寮生活を始めます。奈良県には山に囲まれている集落がいくつかあるので、県がそういう地域の生徒たち向けに寮を斡旋してくれるんです。家から離れて、寮から高校に通っていました。

他人と違うことを強みにする

高校時代はそれまでの村での生活とは別世界ですよね。

同級生たちは関西弁を話すんですけど、私には村独特のアクセントがありました。自分はみんなとは違うという意識が自然に芽生えました。でも違うことが嫌なのではなく、マイノリティであることがむしろ気持ちよかったですね。「あんな山の中から来たの?」と言われるのも面白かったし、先生や同級生が常に気にかけてくれるので得な存在だと思いました。違うって強みだなと。新しい友達を作るという経験も人生で初めてだったので、毎日が楽しかったです。高校時代は、軽音部に所属し、途中から美大受験のために画塾に通ったりしていました。充実した3年間でした。

順応性の高さは武器ですね。高校卒業後は美大に進学したんですか?

はい、京都の美大に進学しました。将来的に天川に戻って旅館や村に貢献したいと考えていたので、パッケージやデザインの知識を学びたかったんです。幼いころからものづくりや工作が好きで、生き物や草を描いていると、「あやちゃんは絵がうまいね」と村の人が褒めてくれるのが嬉しくて。村のために役に立ちたいという気持ちが強かったですね。母も父も京都の大学を出ていて、祖母も京都出身だったので、場所は迷わず京都を選びました。

京都での大学生活はいかがでしたか?

立体造形に興味があって最初は彫刻をやっていたんですけど、途中で転科して木版画をやり始めました。水性木版多色刷り、分かりやすく言うと浮世絵の技法です。

実は美大在学中に1年くらい休学しています。芸術は自分の内側を掘っていく作業。毎日制作を続けて、自分の内側を掘っていくうちに、自分自身というものが分からなくなり、何も作れなくなったんです。怖かったし、しんどかったですね。いろんな場所へ行き、ゆっくりと向き合うことで自分自身を取り戻し、大学に復帰しました。

猫を抱えながら木版を彫っている最中

よかった。無事に卒業したんですね。

はい、1年遅れたけれど無事に卒業しました。周囲は就職活動をしていましたが、私はスーツを着ての就活は一切せず。いずれ天川に戻るつもりだったので、今度は旅館で活かすための料理経験を積もうと考えました。求人情報誌で料理スタッフを募集しているお店を探して、「働かせてください」と連絡。決まったのは、京都の先斗町(ぽんとちょう)の料理屋さん。私の板前修行の始まりです。

実は、卒業後数年は制作を続けて個展を開いていました。でも、少ないお給料の中でやりくりするのが本当に大変で、覚悟を決めてどちらかを選択することにしたんです。実際に稼げているのは料理の方なので、生活が安定するまでは制作から離れることに決めました。

和食業界の厳しさに直面した京都の修業時代

京都の日本料理の世界ってどんな感じなんでしょうか。

ものすごいですよ(笑)。今だから笑って話せますけど、手取り13~14万で1日18時間勤務することもありました。上下関係が非常に厳しく、罵声を浴びせられるのは日常茶飯事。常に怒られ、極限まで追い込まれます。板前として修行しているのは「いつかは独立」を目指している人たちばかり。しかも京都での修行経験は箔がつくので、過酷な状況にも耐えようとします。仮に辞めたいと言っても辞めさせてもらえない。ある朝「あいつ出勤してこない」ということもよく起こる業界です。周りの飲食店で働いてた女性も次々と辞め、女性が続けるには厳しい環境だったと思います。

仕事終わりには、上の人たちと一緒に飲みに行かないとかわいがってもらえない。くたくたに疲れて、家に帰って寝たいのに、深夜の2~3時まで連れ回される。お酒を飲めないとダメだし、面白いことも言えないとダメ。セクハラ発言も普通にありました。

すさまじいですね、女性の板前さんがいない理由のひとつが分かった気がします。

あの修行環境は女性には全くおすすめできません。今はマシになっていると信じたいです(笑)。最初の京都のお店は10か月くらいで辞めて、その後いくつものお店を渡り歩きました。日本料理の板前修業として特徴的なのが、皿洗いから始まり、蒸物、焼物と、担当できるポジションが上がっていくという点。でも先輩たちがやめない限りは、焼物なら焼物だけを何年も続けることになります。私はポジションが空くのを待つ時間がもったいなかったので、ある程度できるようになったら、違うお店に行き、「ここまではできるので、ここからやらせてください」と交渉するようになりました。

ある割烹小料理屋では、仕込をすべてやらせてもらうことができました。高いコースは高いクオリティーが要求されますが、単価が安い場所ではクオリティーが求められない分、より多くのことをさせてもらえます。ひとつひとつ学んだ上で、一通り全部できるようになりたいという目標があったので、働く場所にこだわらず、スキルを身に着けることに徹しました。和菓子にも興味がわき、和菓子屋さんでも修行させてもらいました。

目標を持って戦略的にスキルを体得していったんですね。

はい。そして、また新たな目標ができました。京都には海外から多くの観光客が訪れます。私は日本人のお客さんと同じように、海外の方にも料理について詳しく説明したい。材料や調理の説明、季節感を分かって食べることも和食の大きな要素だと思うので、それができないのは不十分だと感じていました。アルバイトで英語ができる人がいたとしても、専門用語が分かっていないと伝わらないのが日本料理の世界です。料理人自身が英語を話せると、海外からのお客様にも、もっと和食の良さを分かって喜んでもらえるんじゃないか、そう思って海外で働くという目標が急浮上しました。新たな環境で料理の仕事をしながら英語を学べるなんて最高じゃないかと。

海外に可能性を見出し、マレーシアへ

海外につてなどはあったんですか?

全くないです(笑)。頼りは海外の求人情報サイト。実は日本人が海外で働きたいと思ったとき、一番ビザが取りやすいのは和食の料理人なんですよ。自国のビジネスを脅かさないので。そして和食の料理人は世界中で常に需要があります。

私が見つけた情報サイトには、世界中の求人が掲載されていました。まだまだ日本の魚についても勉強し足りないという気持ちがあったので、その中から日本の魚が空輸で来て、日本と同じような仕事ができるアジア圏に絞りました。行きたいのは英語圏の国だったので、まずタイを候補から外します。次に物価の高さからシンガポールを外し、残ったのがマレーシア。行ったことのない国でしたが、やりたいことと学びたいことがそこにあるから、全く悩まなかったです。

桁違いの行動力です。

海外に住んでみたかったんです。旅行ではなく、実際に住んで、文化を味わい、その土地の人たちと関わってみたかった。昔から本が好きで言葉が大好きです。その言語でしか表せない感情を知ってみたいという興味もありました。英語は特にできるわけじゃなかったけれど、特に心配なかったですね。なぜなら中高である程度のベースはありますから。全然知らない言語ではないから何とかなるだろうと。

実際にマレーシアに行ってみて仕事や生活はいかがでしたか?

日本人が経営するお店で、寮も用意されていたので、生活に心配ありませんでした。ただ、日本から飛行機でクアラルンプールに到着したのが夜なのに、翌朝から仕事に出てと言われたのには驚きましたが(笑)。

仕事は、まず現地のスタッフに日本食を教えることからです。料理長は日本人で英語をしゃべれません。私が英語で教えなくてはいけない。料理や作法ひとつひとつについて「なぜこうするのか」「これにはこういう意味がある」など、すべて説明しないといけない。毎日が英語の勉強と仕事一色。お客さんに対してミスはできません。緊張感もある中、非常に濃い時間を過ごしていました。

海外で働くって大変なことも多いと思います。

最初は無我夢中でストレスを感じる余裕もなかったですし、環境には徐々に慣れてくるので案外大丈夫です。英語は実践で学んでいるので、どんどん上達します。京都時代の方がはるかに厳しい環境だったので、それに比べたらマレーシアは天国でした(笑)。いろんな国の友達ができたのも楽しかったです。

多国籍な環境での仕事がとても楽しかったマレーシア時代

大切な人たちが繋げてくれた金沢との縁

マレーシアにはどのくらいいたのですか?

当初は3年くらいの予定でしたが、実際は1年半ほどの滞在になりました。マレーシアに発つ前、短期間だけ奈良の実家で旅館の手伝いをしていました。そのときに金沢で飲食店をやっている知人から「よかったら手伝いにきてよ、寮もあるし」と声をかけられ、そのお店で2ヶ月ほどお世話になったんです。2か月の金沢生活の間、とてもよくしてもらい、マレーシアに旅立つときは送別会まで開いてくれました。

マレーシアにいるとき、金沢でお世話なったその方から連絡をもらいました。「僕の知人が、日本料理屋を開業するにあたり、英語ができて寿司を握れる板前を探している」と。話をもらったときに、金沢なら戻ってきたいと率直に思いました。

オーナーの方とは、Skypeで初めましての挨拶をして意気投合し、日本に一時帰国した際に金沢でお会いしました。手のついてない物件を見させてもらい、お寿司を食べに連れて行ってもらいました。直接話をして、前向きな方向で話は決まり、一旦マレーシアに戻ってから半年後に金沢に来たという形です。

縁がつながってどんどん動いていますね。新しいお店の立ち上げには業務が山積だと思います。

カウンターをどうするか、内装をどうするかなど、オーナーと私と工事業者さんとで、何度も話し合いを重ねました。お店の名前も案を出し合った結果、私の名前の「はた中」に決定。スタート時はクラウドファンディングにも挑戦し、たくさんの方に応援していただきました。

当初オーナーはインバウンド向けの安いお寿司屋さんを考えていたようです。私は安さに合わせて料理のレベルを落とすのが嫌で、そこはオーナーに食や環境に対する自分の想いを伝えて、理解してもらいました。自分が心から良いと思うものを提供したいので。自分の持ち味は100%発揮してなんぼです。今は料理もスタイルもすべて任せてもらっています。本当にありがたいです。オープンからもうすぐ丸3年になりますね。

今の仕事をしていて嬉しいことを教えてください

雇われていたころは、人が考えたメニューをどれだけ頑張るかが成果でした。今は自分で料理を考えることができます。お客さんからの「おいしい」という言葉がダイレクトに自分に響いてくる。こんな幸せなことはありません。自分のアイデンティティを評価してもらえる喜びですね。もちろん批判もすべて自分に返ってくる。でも評価は全部嬉しいです。

「はた中」という名前が、責任にも自信にもなっていますね。店主であるという分かりやすい目印なので、いろいろな料理人の方たちと仲良くさせてもらいやすいです。自分の名前じゃなかったらここまでつながれなかったんじゃないかな。とても多くの方たちと知り合いになれました。

自分の仕事が天職だと思えるのは幸せなことです

自分の性格と得意なことを活かせている幸せ

お聞きしていると、人と話すのが天職のようにお見受けします(笑)。

本当にそうなんです(笑)。人と話すのが本当に大好きなので、誘われたら絶対断らないです。多分一日に会う人の数が、普通の人の3倍はあるかと(笑)。つながりから集客できている部分も大きいですね。

天職のようなお仕事ですけど、大変だったことはありますか?

「飲食業はコロナで大変でしょう」などの声をかけてもらうことも多いのですが、私にはよい期間でした。コロナのおかげで、まとまった休みが取れたし、そのおかげで料理とじっくり向き合える時間ができました。

むしろ大変なのはスタッフの教育です。意見が強い人の場合、「こうしたい、ああしたい」という希望をそのまま受け入れていると、店の方向性が変わってきてしまいます。一方で、自分だけではお店は回せません。自分と同じくらいできる人がいないと、オペレーションが行き届かなくなってしまう。今はなんとかなっても、もう一段階上に行くにはどうしたらいいんだろうと、常に考えています。私はスタッフに何かを強制したくないので、スタッフ自ら情熱や覚悟を持って関わってほしいと思います。その働きかけが課題ですね。自分が受けた修行のようなことは絶対したくないですから。

なるほど。今後のご自身のキャリアプランはどんな風に考えていますか?

今年お店がミシュランガイド北陸2021に掲載されました。それを機に仲良くさせてもらう方たちがさらに広がりました。いろいろなお話をしていると常に新たな刺激を受けます。私は和食にもっと表現を含めていきたい。そういう願望もあって、近い将来ニューヨークで働いてみたいと思っています。ニューヨークのお店で料理長として働くか、すでに評価されているお店で勉強させてもらえたら、見えなかった世界が見えてくるんじゃないかと(笑)。目下の目標はアメリカ、ニューヨークです。

さすがです。お忙しい毎日だと思いますがプライベートの時間はありますか?

仕事とプライベートはかなり重なってますね。仲良くさせてもらっている料理人のグループがあって、同じ日に休みだと、「漁師さんのところに行くけど一緒にどう?」とか「ここの農園を紹介したいから予定空いてる?」など声をかけてもらえるので、わくわくしながら生産者さんに会いに行ったりしてます。

休みの日でも気が付くと料理やメニューも考えてます(笑)。なんだかんだで、仕込と営業で休日が終わることもあります。好きで料理の業界にいる人たちはみんなこんな感じですよ。これが楽しいから、料理人という職業をやっているんだと思います。

年齢で評価は変わるから、やりたいことをやろう

自分の「好き」が仕事になっているって最高です。最後に若い世代へのメッセージをお願いします。

私は30歳を超えたらすごく生きやすくなりました。おそらく世間の目が変わったと思うんです。20代のころは周囲から全く評価されませんでした。やりたいことを口にしても「若い女が何を言ってるんだ」と軽く見られるだけ。まっとうな主張も通りませんでした。ところが、今同じことを言うと簡単に納得してもらえるんです(笑)。転々と新しいお店に移ったことも、海外に行くことも、「安易だ」とか「何も考えてない」とか言われたのが、今は「勇気があってすごい」という評価ですから(笑)。だから現時点でやりたいことを否定されても、自分の意見が通らなくても、単に年齢のせいかもしれない。残念ながら若いという理由でバカにされることってあるんですよ。でも時間が経って年齢が追い付いてきたとき、評価が一気にひっくり返ります。だからやりたいと思ったことは全部やった方がいい。悩みながらでも努力していたら、無駄になることは何ひとつありません。私はそう思います。

■一日のスケジュール

8:30 起床
9:30 市場に仕入れ
11:00 お店に出勤
昼ごはん作って食べる 発注作業
12:00~ 仕込み
18:00 営業
23:00 閉店後片付け
25:00 お店を出て飲みに行く
26:00 帰宅
27:00 就寝

My History

23歳 京都造形芸術大学美術工芸学科卒業
23歳 和食料理店就職
25歳 和菓子屋就職
27歳 城崎、金沢、東京のお店で短期で働かせてもらう
27歳 マレーシアの和食料理店に勤務
29歳 帰国し、“おすしと和食はた中”開業

2021年10月取材
インタビュアー 長谷川由香(子育て向上委員会)