vol.7 鈴木紀子(ふぁみーゆツダコマ株式会社)

鈴木紀子/1971年生まれ 白山市(旧鶴来町)出身 子ども2人/ふぁみーゆツダコマ株式会社 業務課長補佐

北陸初の障がい者雇用特例子会社として、障がい者雇用を進めている「ふぁみーゆツダコマ株式会社」。津田駒工業株式会社のアウトソース業務を担う企業として、2011年に設立されました。障がい者雇用を通して社会に貢献したい、多様性を強化したい、という思いから会社がスタートして早9年。ご自身も障がいを持つ子どもの母親であり、設立当初からふぁみーゆの業務に深く関わってきた鈴木紀子さんにお話を伺いました。

仲間と騒ぐことが大好きだった学生時代

どんな学生時代を送っていたのか教えてください。

ごくごく普通の学生でした。中学ではバレー部、高校ではバドミントン部に所属していましたが、強くなるために練習するより、部活仲間とわいわいするのが大好きな生徒でした。体育祭や文化祭などの学校行事の方に力を入れていたタイプです。将来への夢も特になく、「どこかの会社に入って、そのうち結婚できればいいかな」と気楽に考えていました。

進学した星稜女子短期大学経営実務科経営情報コースでは、経済学や商法、簿記、秘書実務などを学びました。短大時代も友達には恵まれましたね。5人グループで仲が良くて、今でも連絡を取り合っています。

楽しい学生生活を送る中で、就職はどのように考えていましたか?

せっかく経営実務の勉強をしたので、事務系の仕事につきたいと考えていましたが、特に希望する会社はありませんでした。その中で津田駒工業を選んだ理由は、通勤しやすかったことと、実は父親が津田駒に勤めていたことです。まったく知らない会社に行くよりも、知っている会社の方が安心だな、と思い、就職先を決めました。

親子で同じ会社というのも縁がありますね。お父さんからは何かアドバイスをもらいましたか?

厳しい父で、私の反抗期が長かったこともあり、就職を決める際にゆっくりと話をすることはありませんでした。ただ、「しっかりやれよ」と言われたことだけは覚えています。入社後も所属する部署が違っていたため、会社で顔を合わせることはありませんでした。当時、娘が同じ会社で働くことに、父がどう感じていたのかは分かりませんが、最近になって母から「お父さんはあなたのことを認めていたよ」と教えてもらいました。嬉しかったです。

入社後はどのような仕事をしていたのでしょうか?

私が入社したのはバブル景気のほぼ最終年で、同期が55人いました。翌々年からは8人に絞られていたので、景気の波を肌で感じましたね。

入社当初は総務部で受付をしていました。今は「受付嬢」ってあまり見なくなりましたけど、あのころは受付専門がいたんですよ。毎日、来客用の応接室が満室の状態で、受付案内、お茶出し、食事出し、片付け、それだけで1日が終わってしまうくらいお客様の出入りが多かった時代です。

総務部に所属し、受付を担当していました

プライベートでは、入社3年目に同じ会社の現場担当の人と結婚しました。社内のソフトボールクラブを通して夫となる人と知り合いました。結婚して1年後には長女が誕生。会社には産休育休の制度があったので、お休みをいただいて、半年後に職場復帰しました。私の両親も夫の両親も仕事をしていたので、0歳児から保育園にお世話になりました。

1歳前の次女が、突然脳炎になった

仕事もプライベートも順調という感じですね。

長女の出産から2年後に次女が生まれました。次女を産んだときは、10ヶ月の育児休業をもらって、復職しました。出産や子育てで仕事を辞めるという選択肢はなかったですね。「さあ、また仕事を頑張ろう」と気持ちを新たに職場復帰しました。

そのひと月後のことです。次女が突然体調を崩しました。それまで普通に元気だったのに、急に発熱のない痙攣を何十回も起こし、病院へ緊急搬送です。搬送先の病院で、意識のない状態が続きました。そのまま約1ヶ月の入院となりました。診断結果は脳炎でした。

突然のことで、想像できないくらいの苦悩があったと思います。

退院後も次女はその年の暮れまで入退院を繰り返しました。次女が入院している間、私は夜間を病院で過ごし、朝になると母と付き添いを交代して、病院から会社に出勤していました。仕事と子どもの看病で精神的にも体力的にも限界が来ていて、もう会社を辞めようと思いました。ところが、その旨を上司に相談したところ、「辞めなくていい。介護休暇制度を使ってしばらく休みを取ったらいい」と温かい言葉をもらいました。非常にありがたかったです。介護休暇制度を申請して、年明け1月~3月まで介護休暇をいただきました。

当時の私は、会社にとったら、いてもいなくても構わない存在だったはず。そんな私に介護休暇をすすめてくれて、復帰した後も温かい目で見守ってくれて。そのおかげで仕事を続けることができました。会社には本当に感謝しています。

そして、一時は「もうだめかもしれない」と思った次女も、遅いなりにも成長し、今では風邪も引かないくらい元気になりました。生きていることに本当に感謝です。

障がい者雇用に関わる仕事と出会う

介護休暇から復帰後のお仕事は大丈夫でしたか?

周りの支援のおかげで、次女を保育園に預けて職場復帰することができました。部署は総務課からショールームに異動です。ショールームには来客者向けに織機を展示してあり、その織機を稼働するオペレーターです。織機の説明をするのは主に営業担当ですが、何度も説明を聞いているうちに織機についての知識を身につけることができました。のちにショールームの部署は販売部に統合されたので、販売部の所属となり、課内異動で海外向けの輸出書類、通関用書類の作成にも携わりました。

その後、2年ほど別の会社にも出向しています。株式会社T-Tech Japanという、津田駒と豊田自動織機が繊維機械事業の準備機械の販売を目的に共同出資して設立した会社で、会社立ち上げという貴重な場面を経験することができました。

2年後、また販売の部署に戻ったのですが、しばらくして当時の人事課長から、「障がい者雇用の会社を作る」という話を聞きました。人事課長は数年前から、当時の社長の意向もあり、障がい者雇用のプロジェクトを立ち上げていました。そして、同期であった私に「障がい者雇用に関わってみないか?」と声をかけてくれました。

離婚と両親のサポートと

お嬢さんの発病から、復帰、異動、また異動、と目まぐるしく環境が変化していますが。

そうですね(笑)。でもそれだけではなくて、実は介護休暇から復帰し、ふぁみーゆで働き始めるまでの間に、離婚も経験しました。私が販売部署に復職した後に、夫は市場の仕事に転職。夜に仕事をして、昼に休むというサイクルです。次第に生活スタイルがすれ違うようになり、話し合いの結果、離婚することになりました。

離婚してシングルになったら、仕事や育児はさらに大変になると思うのですが。

そこは両親のサポートが大きかったです。販売部での仕事が忙しくて残業したときなど、娘たちは実家でご飯を食べさせてもらうことも多々ありました。父には「子どもたちに寂しい思いはさせるな」と何度も怒られました。父はそうやって怒りながらも、ずっと娘たちの父親代わりをしてくれていました。

障がい者は個性や特性が豊かなだけ

ご両親のサポートは大きいですね。さて、ふぁみーゆツダコマとはどのような会社で、現在鈴木さんはどのような仕事をされているのか教えてください。

ふぁみーゆは、北陸初の特例子会社です。特例子会社とは、障がい者が主役となって働く会社です。支援者であるスタッフを一か所にまとめることができ、個性・特性に合わせてフォローができます。主に親会社である津田駒工業から請け負った業務を行っています。障がい者を積極的に雇用することで多様性に貢献することができますし、津田駒グループ内の業務請負を行うことで互いの収益を図ることもできます。

私自身は、総務、経理、人事と全体的なものを見る役目をしています。一言で言うと、生活面も含めた「お母さん役」でしょうか(笑)。社員はそれぞれ苦手な分野が違うので、作業指示書を分かりやすく作り変えたり、家庭との連絡日誌を書いたり、ひとりひとりの特性を見つけて対応することも大きな仕事です。

ふぁみーゆの研修旅行で職場のみんなと一緒に

なるほど。障がいを持っている社員と日々仕事をしていて何か感じることはありますか?

多くの場合、知的の障がい者は、同じ作業をコンスタントに続けることで能力を発揮します。一方で、ふぁみーゆは、親会社と同様、「完全受注・小ロット生産」の形を取っています。つまり、1日の中で一人がいくつかの作業を担当することがあり、彼らにとって難しい環境の職場にもなりえるのです。そのような中でも、一人一人の個性に合わせた工夫をすることで、可能性が大きく広がるということを実感しています。障がい者は特別な目で見られることが多いですが、みんな本当に普通なんです。個性や特性が豊かなだけ。働いている姿は、とても素直で一生懸命です。

お母さん的な目で見ているものですから、できなかったことができるようになっていく過程がとにかく嬉しい(笑)。理解してもらうまでに時間はかかるけれど、スタッフの地道な指導もあり、手順通りに作業ができるようになる。手つきがよくなり、上手に工具を使えるようになる。数を読めない子も、治具を利用することで品質を守った仕事ができるようになる。日々成長、日々発見です。仕事ですからもちろん大変なことはありますが、みんなの素直さに笑えることが多くて帳消しになりますね。

数を数えるのが苦手でも、道具を使用することで、正しい品質の品物を作ることができます

実際に長年現場で障がいを持つ社員と仕事をしてきた鈴木さんならではの言葉ですね。

私自身も成長していることを実感しています。働いている社員ひとりひとりの個性が全く違うので、人を見ようとする力が自然と養われました。人をしっかり見て、適材適所を判断する力や、能力を引き出す力が、ここで働いているおかげで身についてきた気がします。

一方で、問題や分からないこともたくさんあります。スタッフで毎日相談し合うのですが、それでも困ったときは、特別支援学校の先生や社会福祉協議会のジョブコーチに相談しながら対応しています。秋には「企業在籍型職場適応援助者養成研修」の資格を取りに行くつもりです。

親会社でリーダー的存在になる人には、この現場をぜひ経験してほしいと思います。非常に学びの多い場所です。また、石川県には障がい者雇用をしている企業が少ないので、ほかの企業の方にも、ふぁみーゆで行っている工夫や本業の切り出しを見てもらって、障がい者でもできることや可能性はたくさんあるんだということを知ってもらいたいですね。

ところで、次女もふぁみーゆで働いているんですよ。

え!?同じ職場で仕事しているんですか?

ふぁみーゆができたとき、次女は中学生でした。当時、娘と同じ場所で働くという考えは一切ありませんでした。でも、次女が入社するまでの6年間の私の仕事を、周りのスタッフや会社が評価してくれ、「実習をしてみて、働ける能力があれば入れてみてはどうか?」と言ってくれました。

次女は18歳で入社して、今年で3年目です。会社ではお互いに割り切っていますよ。朝は車で一緒に自宅を出ますが、西金沢駅で次女を降ろします。その後私は車で出社。次女は電車で通勤。帰りも別々で、娘はバスで帰ります。会社では娘から「鈴木さん」と呼ばれています。帰宅してから「今日どうやった?」と次女に聞くと、「鈴木さんに怒られたー」と返してくることもあったりして(笑)。親子と言えど、会社の人たちも普通に扱ってくれるので、それもありがたいですね。

次女の障がいを受け入れるまでの心の葛藤

大変なことがいろいろと起こる中で、それらをどうやって乗り越えてきたんでしょうか?

次女の成長の遅れもあり、離婚してからは本当に大変でした。学校行事、送迎、何から何まで全部ひとりでやらなくちゃいけない。次女のケアはもちろん、長女がスポーツ少年団に所属していたり、町内会長の役が当たったりして、目が回るような忙しい毎日でした。でも、そのときそのときで一番大事なことを見極めて重点を置き、「それがおろそかにならなければいいか」と開き直りました。

次女の障害を受け入れるまでの心の葛藤も大きかったです。今思えばくだらないことですが、当時は「いつか普通に戻るかも」という期待があったり、周りの目や世間体が気になったりして、「娘は障がい者」という事実を受け入れられずにいました。年長時の就学時健診で、入学後の特別学級をすすめられましたが、そのときは認めたくありませんでしたね。

小学校2年生の時に、同じ市内にある小学校の「ことばの教室」をすすめられ、週1回の平日の日中に、その小学校まで通いました。一年間ことばの教室に通い、少しずつ成長する娘を見て、娘に合った指導が必要なのだと気付き、やっと受け入れることができました。

お子さんたちが成長するにつれて、思春期やそれ以降ならではの悩みも出てくると思いますが。

長女に関しては、中学2年生から反抗期で、私とはほとんど話をしませんでした。話をしてもすぐに喧嘩。あのころ長女が一番頼りにしていたのは、小さいころから側にいてくれたおじいちゃん、おばあちゃんだったと思います。私の妹にも、私の悪口を含めていろいろ相談していたようです(笑)。思春期のころは特に、自分を認めてくれて、心の内を話せる存在が必要なのかもしれません。大学は県外に進学しました。「デザインの勉強をするために県外の大学に行きたい」と言ったときは、金銭面のこともあり、私が大反対をして、すったもんだがありました。結局希望の大学に進学し、無事に卒業して、今も県外で仕事をしています。進学で家を離れるときと大学を卒業したときに、娘から手紙をもらいました。その二つの手紙は私の宝物で、毎日財布に入れて持ち歩いています。

次女については、学童時代からのお友達や、そのお母さん方、先生方に気にかけてもらえていたので心配はほとんどなかったです。障がいを持っていて、できないことが多い分、手を貸したくなるところですが、障がいを持っているからこそ自立の力をつけてあげないといけません。少しでも自分でできること、自分で考えることを増やしてあげることも親の役目のひとつだと思い、日常生活に関することは極力自分でさせるようにしました。今では私も母も、娘がいないと困るくらい毎日お手伝いをしてくれています。

登山も、マラソンも、浅野太鼓も

本当に強いお母さんであり、仕事人であると感服します。

それが、離婚したばかりのころは、お母さんとしてだけじゃなくて、「お父さん代わりをしないと」という意識もどこかにありまして(笑)。お父さん=アウトドア という単純発想から、スキーやキャンプにも連れて行きました。私が子どものころから両親と登っていた白山登山にも、娘たちと挑戦しました。初めての登山は、長女が小学2年生、次女が年長のときです。そのうちに短大時代の友人が加わり、長女が6年生になるまで毎年一緒に登りましたね。

娘2人と一緒に、毎年恒例となっていた白山登山へ

現在も友人や職場の仲間、その家族と一緒に登山しています。いつのまにか津田駒登山部という名前もつきました。非公式のチームですが、おそろいのTシャツもあります(笑)。チーム津田駒登山部で、金沢マラソンにも出場しています。マラソンではみんなで一緒に走るんです。心が折れそうなときは互いに励まし合いながら。誰かの足がつったら、みんなで待ってるんですよ。フルマラソンの42キロは、途中辛い時間もありますが、そのつらさを共有できるのは貴重ですよね。白山白川郷の100キロマラソンにもみんなでチャレンジしました。ホワイトロードに入ってからが地獄で、残念ながら60キロでリタイアしてしまいましたけど(笑)。

パワフル過ぎるんですけど(笑)、この流れでプライベートもお聞きしていいですか?

40歳を過ぎて子育てもひと段落ついたころから浅野太鼓を習い始めまして、今年で5年目です(笑)。昔から「太鼓ってかっこいい!」と思いながらも、機会がなくて。たまたま初心者入門教室が開催されるのを知って、チャンスとばかりに習い始めました。

現在は浅野太鼓の教室4つに所属しています。嬉しいことに、太鼓を通して新たに素敵な仲間もできました。この年齢になって同じ目標に向かう仲間ができて本当に楽しいです。年に1回発表会があるので、そこに向けて練習しています。

気合の入る年に1回の発表会です

人とのつながりを大切に、感謝の気持ちを忘れないで

さまざまな経験を重ねてきた鈴木さんから、ぜひ若い女性たちへのメッセージをお願いします。

仕事と家庭、育児、介護等々、生きていれば大変な時期はあります。でも、大変な時期はいつか必ず終わり、「あのときは大変だったよね」言えるときが来ます。大変なときは一人で頑張るのではなく誰かを頼ってください。私は会社の上司、先輩、後輩、一緒に働くスタッフ、友人たち、両親など、たくさんの人に助けてもらい、支えてもらいました。誰もひとりでは生きていけないので、周囲とのつながりと「ありがとうの気持ち」を大切にしてほしいです。

そのことを再認識させられる出来事がありました。昨年、父が突然の事故で他界しました。私が駆けつけたときには、もう間に合わず、「たくさん心配をかけてごめんね」も「ありがとう」も何も伝えることができないまま見送ることになり、とても悲しい思いが残っています。

健康でいられることも、誰かが手を貸してくれることも、当たり前のことではありません。だから、どうか若いみなさんも周囲への感謝の気持ちを忘れないでいてください。あとはぜひ笑顔でいてください。

1日のスケジュール

5:15起床/筋トレ・朝食準備・自分の支度
6:40朝食
7:15会社へ
8:00出社
17:00~社員退社後、スタッフと一日の振り返り
18:00帰社
19:00帰宅 夕食・入浴・夕食の後片付け後
22:00就寝

My History

20歳星稜女子短期大学 経営情報コースを卒業
津田駒工業株式会社に入社 総務部受付に配属
22歳結婚
23歳第1子出産
26歳第2子出産
31歳離婚
39歳ふぁみーゆツダコマ㈱へ出向
42歳津田駒工業 主任(ふぁみーゆ 課長補佐)に就任
45歳津田駒工業 副参事に就任
47歳現在

2019年6月取材
インタビュアー 長谷川由香(子育て向上委員会)