vol.14 高橋仁美(北菱電興株式会社)

高橋仁美/1971年生まれ 七尾市出身/北菱電興株式会社 管理本部 副本部長 人事部長 広報室長

電気・電子機器の販売やエレクトロニクス研究・開発、各種設備工事など事業領域が広範囲に及ぶ北菱電興株式会社。現在、管理本部の副本部長として人事や広報を取りまとめている高橋さんにお話を伺いました。

卓球に出会った中学時代、目指すは全国大会

能登のご出身とお聞きしました。能登で過ごした日々から聞かせていただけますか?

七尾市の出身です。中学で卓球に出会い、卓球とともに過ごした中学時代でした。私の中学は男子卓球部が強豪で全国大会に出場するレベルでした。一方の女子はというと、決して弱くはないけれど、毎年県のベスト4くらい。強い男子の先輩たちが本当にカッコよくて、「私たちも全国に行きたい!強くなりたい!」って思いました。ところが1年生のころは球拾いばかりでろくに打たせてもらえません。そこで思いついたのが自主練です。土曜日午前の部活が終わった後、友達と自転車で公民館へ行き、卓球台を貸してもらってひたすら練習。当時女子卓球部の同級生は12人いたんですけど、ほぼ全員が土曜日の午後と、下手をすると日曜日も毎週一緒に公民館で自主練していました。

中1で貴重な週末を潰して自主練を始めるなんて(笑)!

男子卓球部の指導者は熱意がすごかったんですよ。でも女子の顧問はあまり熱心じゃなくて。そこで、書店へ行き、全日本チャンピオンが書いた本を買って、そこから練習メニューを考案して実践していました(笑)。自分たちでやるしかありませんから。

その思いが通じたのか、2年生に進級したタイミングで、新任の女性教諭が卓球部顧問に着任したんです。なんと県の卓球チャンピオンだった方。「来年は全国大会に行きたいです!」と思いのたけをぶつけると、「一緒にがんばろう!」と私たちの気持ちを受け止めてくれました。

その後の展開が気になります!

先輩が引退した2年の夏に私はキャプテンになりました。団体戦では、県で準優勝することができ、北信越の3位決定戦も勝ち抜いて、なんと夢だった全国大会へ駒を進めることができたんです。同時に個人戦でも全国行きを狙っていました。でも思いがけないところで敗退。「こんなに頑張ってきたのに願いが叶わないなんて」と落ち込みが激しく、そこから気持ちを切り替えるのは中学生ながら大変でしたね。ただ、その分同じチームで切磋琢磨してきた親友が個人での全国出場を決めてくれました。本当に密な時間を過ごした大切な親友なので、嬉しかったです。

全国大会は千葉でした。さすが各地からの精鋭が集まってきているだけあってレベルが高く、私たちのチームは予選で敗退。でも勝ち進んだときのために予備日が確保してありまして、その予備日にみんなでディズニーランドに行けたのが貴重な思い出です。先生とは10歳くらいの年齢差なので、お姉さんのような存在でした。のちに「本当に全国大会に行けるとは思ってなかった」と言われました(笑)。ありがたいことに、今でも関係が繋がっています。

卓球雑誌の全中特集に掲載された写真です

目立つことを避けるようになった高校時代

いやすごいです!中学早々全国レベルの話で驚きました。卓球はその後も続けたんですか?

高校は七尾高校に進学しました。卓球はもういいやと思ってたんですけど、中学時代からの仲間が部活見学に行くと言うのでなんとなくついていったら、先輩たちが親切に接してくれて。なんとなく断れないまま入部しました。高校時代は中学のころのように熱量高く取り組んでいたわけではなく、ほどほどの感じで、たまにサボりながら続けていました。ただ、仲間たちが頑張っている様子を近くで見て、3年生の最後の大会だけは心を入れ替えてのぞみました。その結果、シングルス・ダブルスともに個人戦は北信越まで行けましたね。

さすがとしか言いようがありません(笑)。

いえいえ(笑)。小中時代はずっとリーダーやクラスの会長、部活のキャプテンをやり続けて、自分の意思に関係なく目立つ存在になっていたんです。自分の知らない人が自分のことを知っていて、話したこともない人から妬まれることもありました。一生懸命やっているつもりなのに、陰口をたたかれる。そういうことが何度かあって、子どもながら傷ついていたんですね。そこで高校生になったときには、目立つ人生から避けるようになりました。活躍とかしたくないし、自分から何かに立候補するなどとんでもない。でも卓球だけは、頑張ってきた親友のためにも、真剣に取りまなきゃと思って。最後をいい形で締めくくれてよかったと思っています。

大学で始めたスキーで1級を取得し、副主将(女子主将)を務める

最後きっちりと結果を残せるのはなかなかできることではありません。その後の進路を教えてください。

大学受験は第一志望に振られてしまい、第二志望の富山大学に進学しました。富山大学って周辺に何もないんですよ(笑)。でもせっかく富山に暮らすんだから、富山と言えばスキーだろうと。スキーがうまくなれたら面白いなという軽い気持ちで基礎スキー部に入部しました。入ってみたらこのスキー部が立派な体育会系で。しかも新入生でスキー経験がない状態で入部したのは私一人だけ。みなリフトに乗って上がっていく中、板の履き方から教えてもらっていました。

幼いころからスキーをしてきた人たちと一緒に練習するのは大変じゃなかったですか?

大会でいい成績を残すのは無理でしたね。経験年数が長いメンバーにはかないません。ただまとめる力は認めてもらって、3年次には副主将(女子の主将)を務めました。根性で1級だけは何とか取得して引退することが出来ました。

基礎スキー部のみんなと。最前列真ん中が私です

1級!これ難しい資格ですよ(笑)。キャリアが長くても簡単には取れません!

オフシーズンも週3で陸上トレーニングもしていたし、結構頑張りましたね(笑)。今はもう全然滑っていないので、自信ないですよ。

週3でトレーニングもすごいですね。大学の勉強の方はいかがでしたか?

人文学部人文学科に入学したのですが2年の夏に学内の試験を受けて経済学部経営法学科に転部しました。本当は法学部に行きたかったんです。弁論大会などで話すのが得意だったのと、正義感は強かったので、自分は弁護士なんかに向いてるんじゃないかと思って。経営法学科では授業の8割くらいを法律関係が占めます。ただ六法全書を見て「あ、弁護士無理です。ごめんなさい」ってすぐに諦めました(笑)。

父の死で金沢に戻って就職することを決意

弁護士は目指さないことにしたんですね。

一般企業に絞って就職活動をしました。スキー部は3年の3月まで活動するので、他の学生たちと比べてどうしても就活のスタートが遅れます。公務員試験にも間に合わないので、一般企業に的を絞りました。時代はバブルがはじけて氷河期に突入したころで、私は文系だったこともあり、ひどい状況でした。

実は大学3年のときに父を亡くしています。弟は当時高校生で、県外への進学を希望していました。弟が地元から離れるとなると、私は大学卒業後には石川県に戻った方がいいだろうと。そこで、勤務先が金沢市で、週休2日で、大卒文系女子を雇ってくれるならどこでもいいという思いで就職先を探しました。

就職氷河期は本当に過酷な状況でしたよね。

本当に大変でした。採用情報はほとんど手元に届かず、わずかに知り得た先に応募しては断られ。そんなときたまたま見つけたのが北菱電興です。男女学部四大短大、関係なく学生を募っていました。合同説明会のブースでは若い女性が学生の対応をしていました。聞けば今年入社したばかりとのこと。入ったばかりの新入社員でもこんな面白そうな仕事ができる会社なのか、とプラスの印象を受けました。就職試験では常務取締役が直接面接してくれて、そこで気に入ってもらい、何とか内定を得ることができました。

おめでとうございます!

ありがとうございます!その当時はコネ入社がほとんどだったようで、入社早々総務から「誰のコネ?」と聞かれたことを今でも覚えています。会社では初めての女性総合職でした。やる気に満ちて仕事に取り組み始めたんですけれど、少し経ってからあることに気が付きました。どうやら給与額が同期の大卒男子より数万円安いんです。さらに調べてみると一般職女子よりは数千円高い。同じ大卒でも、スタート地点で男女に大きく差があり、この数千円が女子としての総合職手当なのかと微妙な気持ちになりました。とはいえ時代は氷河期です。「雇ってくださってありがとうございます」の気持ちの方が断然強く、給与額を深く気に留める余裕もありませんでした。周りには「男女雇用機会均等法もある中での総合職なんだから男性と同額なんでしょ?」と思われていたようですが。

アシスタントではなく営業がやりたい

うむむ。納得いかないですね。でも先に進まなくちゃいけない。入社後はどのようなお仕事をされていたんでしょうか?

最初に配属されたのが企画部です。総務・人事・広報を併せ持った部署ですね。入社後すぐに翌年の新卒採用の担当になりました。会社の説明ができるようにならなければいけないので、自らいろんな部署に仕事内容について聞き取りに行きました。

半年ほど就活の担当をして、その後商社部門に異動になりました。B to B(企業間取引)でユーザーの業種や業態に適したFAシステムの構築や製品の販売をする部門です。突然担当者が辞めたために、社内での補充で異動になった形です。その後20年以上、この部署に在籍しました。

商社部門でのお仕事は、異動当初いかがでしたか?

「1年後にはここで一番仕事ができるようになるんだ」という思いで仕事を覚えました。部署で一番仕事ができる先輩が直属で教えてくださったので、自分なりに懸命に頑張りました。頼まれてもいない仕事なのに「私やりますから教えて下さい」と率先してこなす勢いで(笑)。その姿を見た取引メーカーの方が、「一緒に営業しようよ」と声をかけてくださいました。

ただ私はあくまで営業のアシスタント職です。当時会社は「女性に男性と同じB to Bの技術系の営業は無理」と後ろ向き。でも私はアシスタントではなく営業をやってみたい。上司にその旨を相談してみたところ、「自分で役員に話をつけに行く覚悟があるか」と言われ、自分の部署で一番偉い人に直訴しに行きました。思いの強さを理解してもらえたのか、1か月後くらいに営業職に配置転換。ただし元々総合職採用だから、給与はどんな職種になっても変わらないという条件でした。

給与面では納得しきれない部分を持ちつつも念願の営業ですね。

営業職について驚いたのが、全く同じ仕事をする女性に1人も出会わなかったことです。どこの会社でもFAの分野には女性の営業がいないということを痛感しました。営業として仕事を始めてからは、「工場の装置の調子が悪い」「通信がおかしい」「機械の立ち上げがうまくいかない」等のトラブルに、現場を走り回る毎日でしたね。仕事量は多いですし、大変なことはありましたが、「自分の人生を悔いのないように生きたい」「先々の結婚や妊娠を考えたら頑張れるのは今しかない」という思いで頑張りました。ただ、そんな中でも「女性の営業は信頼していないから」と心ない言葉をかけられることもありました。

ワンオペ育児と周囲からのサポート

実力と関係ないところで評価されるって悔しいですよね。

悔しいですね。頑張りが正当に認められない歯がゆさはずっとありました。営業になって数年後に結婚して2人の子どもを出産しました。妊娠中に車で出歩くのは危ないからとの会社の配慮で内勤となりました。育休を取った年は主任試験を受けられる年だったので、1年の育休を半年に短縮して復帰したんですが、部署では推薦してくれたものの総務では許可してもらえず、結局1年遅れでの主任昇進でした。

子どもを育てながらの仕事はとても大変だったと思います。

夫が単身赴任だったので、平日は100%ワンオペ育児です。ギリギリまで仕事をして、保育園に迎えに行き、食事の用意やお風呂、洗濯、翌日の準備など、今振り返ると本当によくやっていたと思います。子どもが熱を出し、自分が休みを取れないときなどは、穴水に住む義母がバスでかけつけて子どもの世話をしてくれました。数日泊まり込みで面倒を見てくれたこともあります。本当にありがたかったです。

夫は普段不在の分、週末の在宅時は非常に協力的で、率先して家事育児をしていました。子どもにとってもたまにしか会えないお父さんの存在はプレミアが付くみたいで、何でもお父さんにしてもらいたがってましたね。うんちが出ると、子どもが自分でおむつを取ってきて「お父さん!はい!」と満面の笑みで父親をおむつ交換役に指名してました(笑)。

保育園のママ友にもたくさん助けてもらいました。行事に遅れそうなときや仕事で行けないかもしれないときに、「代わりに写真撮るよ と先回りして支えてくれたママ友たちおかげで、楽しく集団生活を送ることができました。子どもが成長した今でも彼女たちとはいい関係が続いています。

後輩の男性社員が昇進していく姿を見送る辛さ

子育てに周囲のサポートは不可欠ですね。さて育休から復帰後の仕事はいかがでしたか?

2人産み終えたし、これからはバリバリ仕事するぞと意気込んでいました。ところが現実は甘くありません。当時女性が受けられるのは主任の試験まで。主任以上になれる方法がなかったんです。気が付けば、後から入社してきた後輩の男性社員がどんどん係長や副課長に昇進していきます。自分も懸命に仕事をして結果を残している自負もあるのに、女性という理由で評価されず、ずっと主任のまま。頑張りが報われない現実と、40歳や50歳になってもこの状態が続くであろう自分の将来に八方ふさがりな気持ちになり、「ああ、これはもう無理だ」と感じました。「ここにいても先がない」と見切りをつけて、転職活動を始めました。

ああ、気持ちが分かります。

転職活動を始めて、面接まで進んでいたころのことです。上司に「高橋はちゃんと昇進するべきだ」と声をかけられました。「前例がないので取締役会で通るかどうかは分からないけれど、とにかく推薦する」と。本当に嬉しかったですね。その言葉でひとまず転職活動を休止しました。

その後、この上司が役員に話をつけてくれて、取締役会の承認を得て、36歳のとき女性で初めて係長になりました。このときに周囲からかけてもらった言葉が「この会社に女性係長が誕生する日が来るとは思わなかった。これ以上の昇進はないとは思うけどすごい!」です(笑)。係長では終わらせないぞという思いが秘かに芽生えました。

組織・制度改革に携わり、女性が正当に評価される仕組みに

そして係長から今のポストまで、またいろいろな紆余曲折があったと思います。

係長を4年経験した後、商社の販売部門から管理部門に異動になり、40歳で副課長になりました。管理職と呼ばれるポストに初めて女性が就けたという感慨深い(笑)昇進でその後順調に課長になりました。

管理職になって初めて経験したのが人事考課です。どのように部下を査定しているのか参考にしたくて、先輩課長たちにヒアリングをしたところ、大事な査定にも関わらず部署や上司によって査定の方法がバラバラ。これはおかしいんじゃないかと感じました。

管理職ポジションに就いたことで見えてくる部分もありますね。

調べれば調べるほど、人事考課や評価制度がおかしいことに気がつきました。大切な判断が個人の基準に委ねられていて、本人へのフィードバックは一切なし。そこで、ガイドラインを作って課長レベルで共有し、面談をしてより正当かつ明快な評価をすべきだという提案をしました。そうこうしているうちに、社内に発足したプロジェクトに呼ばれ、組織や制度の改革に関わるようになりました。ここで初めて全社員のデータを見たんですね。驚いたのは自分を含め女性の給与がずっと低いまま抑えられていたこと。同レベルの男性管理職と比べ、自身の給与の圧倒的低さにもびっくりしました(笑)。給与設計を根本から見直し、女性の総合職制度を整備し、中途採用制度も整え、能力とは関係がない、性別や在職年数等での差が生まれないようにしました。

非常に大きく前進したんですね!素晴らしい。

ありがとうございます!管理職になって、ようやく物が言える立場になれたことが大きいですね。3年前には突然総務部長という畑違いの部門に異動になりまして、今は管理本部の副本部長として主に人事と広報の取りまとめをしています。

人事は非常に大切な分野だと考えているので、人事部は独立した組織となっていますし、広報室長としては会社の新しい取り組みを内外に広く発信していきたいと思っています。特に企業間連携プロジェクトや産学連携などの新しい取り組みをしっかりと伝えていきたいですね。

企業の枠を超えて多くの女性たちと繋がりたい

ここまで頑張ることができた理由ってなんでしょうか。

負けないぞという強い気持ちでしょうか。上司が私を褒めてくれるとき、「男だったらよかったのに」ってよく言われたんですよね。「女の高橋じゃダメなのか?」と反骨心は常に自分の中に持っています。

独身の営業時代は夜中までトラブル対応に当たることもありました。でも出産後は子どもの迎えの時間があるので残業ができなくなります。そのときに「早く帰らなければいけないから仕方ない」と諦めるのではなく、「質の高い仕事をしよう」と思えたのが、今の自分に繋がったような気がします。産休明けで復帰したときに上司が「時短を後ろめたく思わなくていい」とはっきり言ってくれたことも大きな救いでした。周囲の協力は大きな力となりました。

あとは社外のセミナーを自分で見つけて学んだり、資格を取りに行ったりと、周りから与えられるものに満足するのではなく、自発的に動くようにもしていました。いろいろな場所で活躍している女性の先輩たちの姿を見ることができたことも大きな財産です。

NPOでの活動の様子。企業の枠を超えて、地域でも活躍の場を増やしていきたいです

素晴らしいです。ご自身の今後のキャリアプランはどのように考えていますか?

長く会社の中だけでやってきましたけど、そろそろ企業の枠を超えて、地域貢献や地域活動を通して多くの女性たちと繋がっていけたらなと思っています。最近はジョブ型の働き方が注目されていることもあり、いろいろな仕事の仕方にチャレンジしてみたいです。北菱電興の高橋だけではなくて、地域の中の高橋仁美としての顔も持ちたいので。

県内企業の女性管理職や管理職候補の方たちと繋がりができ始めたので、県内の『お仕事女子』を元気にしていくお手伝いもしたいです。県内の女性管理職の数はまだまだ少ないのが現状で、その理由に女性が自分の能力を過小評価して引いている部分もある気がしています。仕事は優秀なのに、控えめなせいで、能力が正当に評価されないなんてもったいない。管理職って実は便利なんですよ。自分が管理職になっていた方がいろいろな段取りがつけやすいし、自分の意思で色んな仕事に携われるんですから。1人でも多くの女性の古い価値観や思考枠を取り除いていけたらと思います。

ともに夢のある未来を語ろう

プライベートの時間とかありますか?

今は地域のNPO活動がプライベートみたいな感じですね。NLP国際マスタープラクティショナーの資格を取得して、NPO法人スタンド・バイ・ユーでトレーナーとして活動しています。コミュニケーションスキルの講師やファシリテーターとして、SDGsの普及にも努めています。「誰一人取り残さない」というSDGsのスローガンはまさに私の理想で、一部の人たちじゃなく、みんなでよくなっていけたらいいなと思っています。

コロナが感染拡大する前は、毎年必ず海外に行っていました。その時々で家族内の行けるメンバーで行くという感じなんですけど、今でも高校生、大学生の息子たちは喜んでついてきますね(笑)。

子どもたちが幼いころに家族旅行で訪れたサイパン

コロナが収束して早くまた海外旅行に行けるようになってほしいですよね。最後に若い世代へのメッセージをお願いします。

一緒に楽しくて面白い未来を創っていきましょう、と伝えたいです。ちょうど先日、働くことに関するオンラインセミナーに参加しました。参加者は、大学生や社会人、経営者などさまざま。セミナーの中ではテーマに沿って意見を出し合ったんですけど、「どんな仕事が嫌か」というテーマについてみんなで話しているときは、それぞれの立場で意見が分かれるんですね。ところが「未来はどんな働き方をしたいか」という話になると、みんな似たような将来像を語り出すのが印象的でした。視線を未来に向けると、自然と同じ方向を向いて希望を見出すことができるんだなと。

今、勤務先でも働く人の幸福度を向上させるSmart Smileプロジェクトに取組んでいるのですが、ぜひとも若い世代の人たちと思いを共有したいと思います。一緒に夢のある未来を創っていきましょう。

■一日のスケジュール

5:30 起床
朝食、次男の弁当作り、洗濯(夫が一緒に干す)
夕食準備(時間に余裕がある日)
7:30 出勤(一番最後に家を出る)
7:50 出社
19:30 退社
20:00 帰宅
20:30 夕食(夫との晩酌率の高さが悩み)
21:30 入浴、フリータイム(SNS、勉強など)
23:30 就寝

My History

22歳 大学卒業後、北菱電興株式会社に入社
26歳 結婚
28歳と30歳で出産。産休育休を経て復職
30歳 同期から1年遅れて企画職試験を受けて主任になる
36歳 社内で女性初の係長になる
40歳 社内で女性初の管理職(副課長)、43歳で課長になる
45歳 販売部門から異動、総務部長に就任。
NLP国際マスタープラクティショナーの資格を取得し
NPO法人スタンド・バイ・ユーでトレーナーとして活動
48歳 管理本部 副本部長、翌年理事に就任
SDGs de 地方創生公認ファシリテーターとして、NPO法人
ワークライフバランス北陸主催のイベントなどでも活動

2021年1月取材
インタビュアー 長谷川由香(子育て向上委員会)